やたいち日記


食材日記です
by yataiti1gou
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カテゴリ:日本酒( 14 )

チャリティーイベント出品酒 其の参 『墨廼江』

『蔵の歴史』

1845年、弘化2年創業

澤口家の初代・澤口清治郎は、仙台・河原町で「泉屋」と云う屋号で

山形から紅や呉服反物などを扱う問屋に生まれました

商人向きではなく、遊び人だった清治郎を息子・安治と共に

当時米の積出港として栄えていた石巻へ別家に出しました

その後、本家「泉屋」より分けてもらった財産を元手に海産物問屋と穀物問屋を始めました

若くして他界した父に代わり事業を継いだ二代目・安治は商才に優れ事業を拡大していきました

海産物問屋としては、三陸漁業権の七割を確保した程でだったそうです

本場静岡焼津より職人を呼び寄せて、石巻では初めて鰹節を製造したり

ラッコ船にまで手を広げていきました

当時、蔵のある地域には水の神様を祭る墨廼江神社があり

その地名墨廼江を、そのまま酒名にして酒造りを行っていた井上家という商家がありました

初代・清治郎の代より井上家に酒米を納入していた縁もあって

1845年弘化二年澤口家が造り酒屋を譲り受けました

当時は酒造りの方はあくまでも副業的な存在で事業の柱は海産物問屋、穀物問屋でした

その後三代目・清治郎の時代になり、昭和3年に大津波が三陸海岸を襲い

本業の問屋業が壊滅的な被害を受け、その後酒造りが本業になったそうです

その後四代目・安五郎、五代目・安右衛門と酒造り一筋に専念し

現社長・康 紀が平成11年10月に六代目に就任し現在に至っています



『現社長・康紀氏が見つめる酒造り』

社会人になるまで酒蔵を継ぐことなど考えなかった澤口社長は

武蔵大経済学部を卒業後、東京の洋服店に勤め、サラリーマン生活をしていました

ところが父親の前社長が体調をくずし

親のたっての希望から、家業の墨廼江酒造に入社することになりました

酒造りに関心もなく育った澤口社長は、自らの酒造りの勉強のため

入社してすぐ滝野川にあった国税局醸造試験所に研修に行きました

そこでは全国から集まる、蔵内最高の鑑評会用の出品酒を思う存分飲むことができ

初めて出品酒の持つ本物の酒のすごさを身をもって経験したそうです

その後、会社に戻った澤口社長は、卸部門を切り捨て、桶売りを止め、大きなタンクを廃棄し

量より質の転換を目指して大リストラを断行したそうです

そして今までの努力が実り、宮城を代表する酒蔵となりました

酒造りは、酒が好きでなければいけません

道楽と仕事が混在しているのが酒造りです

年ごとに、米の出来具合、気候や気温、水の温度など

酒の味わいに直接影響する要素が違います

酒造りは毎年が1年生です

と語る社長は、「お客様と品質を大切に」を信条に

「綺麗」「品格」「飲み飽きない酒」を消費者の方々へ提供していきたいと頑張っておられます



d0176160_13394120.jpg 『墨廼江 純米吟醸 八反錦』

 辛口酒にありがちな渋みも無く
 穏やか香りに柔らかな味わい
 爽やかにきりりと冷やして
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by yataiti1gou | 2011-04-21 00:16 | 日本酒

チャリティーイベント出品酒 其の弐 『日高見』

『蔵の歴史』

岩手県の「菊の司」酒造から分家し当地で酒造業を開始しました

石巻沿岸の金華山沖では暖流と寒流のぶつかる世界三大漁場のひとつとして

四季折々に美味しい海の幸を楽しめた石巻は

江戸時代には伊達藩と南部藩の米の集積地として栄え、遠く江戸や大阪に物資を運んでいました

その当時、造り酒屋を開くには藩の許可が必要で

一宿に一軒と定められ、16軒もの造り酒屋があったと云われています

平孝酒造のある清水町は、その名の通り名水が湧き出る地として有名で

初代が酒造りに最適地とのことで当地に城をかまえました

平孝酒造では、普通酒の銘柄を「新関」、特定名称酒を「日高見」として販売しています

「新関」は、レギュラー酒として、主に地元で親しまれ

「日高見」は、全国レベルで通用する酒を目指そうと開発された勝負銘柄で

酒名の「日高見」は、日本書記の中に「土地沃壌えて広し」と記されているように

その昔太陽の恵みを受ける国「日高見国」と称えられ

その中央を流れる川「日高見川」が後に北上川と呼ばれる様になり

郷土と深い関り合いがある事に因んで命名したそうです



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『日高見 超辛口純米酒』

『ひとめぼれ』を宮城酵母で醸した辛口の純米
程よいコクと旨みを有し、お燗にしてもバランスが崩れません
白身の刺身や貝料理なんかをやるにはいいですね
でしゃばらず、きっちり肴を引き立ててくれます
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by yataiti1gou | 2011-04-20 16:11 | 日本酒

チャリティーイベント出品酒 其の壱 『浦霞』

『酒蔵の歴史』

享保年間に塩釜神社のお神酒酒屋として創業

佐浦家の初代・尾島屋富右衛門は、はじめ麹製造業を営んでいましたが

1724年に酒造株を譲り受け、以来塩竈神社の御神酒を醸し続けました

大正12年頃、東北地方で陸軍大演習があった時に

当時摂政官であった昭和天皇にお酒を献上する栄を賜り

それを機に万葉時代からの歌枕であった塩竃を詠んだ源実朝の歌(金槐和歌集)

「塩がまの浦の松風霞むなり 八十島かけて春やたつらむ」から引用し浦霞と命名しました

昭和に入り第二次大戦の戦時下でも製造を続けてまいりましたが

企業整備の波にのまれ、仙台酒造株式会社浦霞工場となりました

昭和30年代に入り、仙台酒造株式会社は解散となり

昭和31年10月1日に株式会社佐浦が誕生しました

蔵元佐浦は故平野佐五郎杜氏が中心となって南部杜氏修行の道場的な役割を担い

地酒の品質向上に大きく貢献致しました

現在では子孫の平野重一浦霞顧問(名誉杜氏)を頭に

浦霞本社蔵杜氏鈴木智さんと浦霞矢本蔵杜氏小野寺邦夫さんが蔵のかじをとっています

酒蔵は観光桟橋からもほど近いところにあり

数十年前までは蔵の裏手まで船が入り荷の積み下ろしを行なっていたそうです

敷地内には江戸時代末期に建てられた土蔵や大正時代の石造りの蔵があり

現在も使われれています


『12号酵母の発祥蔵』

全国の酒蔵で使われている酒造り酵母(協会12号)はこの蔵から採取されたもので

地酒ブームのさきがけともなりました

吟醸酒には、リンゴや梨やメロンのような果実の香りがありますが

浦霞にはイチゴのような香りがしたと言います

それを何か香りの成分を付け足したのではないかと

国税庁の醸造試験場で調べに来たこともあったそうです

当然、何かを付け足すということは無く、それは吟醸酒の醸し出す自然の香りでした

この酵母のを使い、それからというもの毎年の様に入賞し、数々の賞に輝きました

その酵母を佐五郎は宮城県酒造組合醸造試験所に

「県内の蔵元には自由にお分けください。しかし県外へは2、3年隠しておいてください」

そして、「私の弟子達でこの酵母を使いたいと言ってきた者がいたら使わしてやりたいものですから」

と付け加えたといいます

これは各地の蔵で活躍している佐五郎の弟子達が佐五郎の酵母を使い

鑑評会で好成績を上げられるようにとの思いから出た言葉でした

この酵母は弟子達の間で「平野酵母」と呼ばれ

この酵母を使った弟子達の殆どが鑑評会で好成績を上げていったそうです

時を経て「きょうかい12号酵母」として頒布されていた浦霞の酵母は現在は頒布されていません

酵母は生き物であり、時代の流れとともに変異してしまうことがあるそうです

香りが高く吟醸酒向きだったこの酵母も、今では酸が多く出てしまう酵母に変異してしまい

吟醸酒には向かない酵母となってしまたそうです

現在、浦霞では「きょうかい12号酵母」の流れを汲む酵母を自家培養して使用しています

佐五郎氏の酵母は弟子達の間で今は使われていませんが

その酒造りは浦霞の杜氏達をはじめ佐五郎の弟子

そして孫弟子達の間で今も変わることなく受け継がれています


『13代目佐浦弘一の功績』

中央の情報を収集するため東京赤坂の日本酒バー「れくら」や 「グッドドール」 へ資本参加したり

地元の方々に日本の伝統文化としての酒造りへのご理解を深めていただくため

佐浦社長みずから講師となって「うらかすみ日本酒塾」を開いたり

醸和会主催で女性への「日本酒を楽しむ女性セミナー」開いたりと

宮城の蔵元のリーダーとして先見性に富み、積極果敢に活動されております

特筆すべきは次代を担う若いスタッフが多いこと

そして酒造りを極めるため、最新の分析機器を揃るなど柔軟かつ先進的に活動されている事です

小さな蔵の個性的な酒も楽しいですが、清酒を普及させるうえでは

浦霞のような献身的な酒蔵は重要な位置をしめています



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  『浦霞 純米酒』

  あまり冷やし過ぎるより
  常温や少しぬるめのお燗なんかがいいですね
  一年二年と少し寝かせてみたい酒です
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by yataiti1gou | 2011-04-20 00:16 | 日本酒

櫻正宗

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櫻正宗は灘五郷の一つ、魚崎郷に酒蔵を構える創業四百年の老舗中の老舗蔵

かつては伊丹が摂津の代表的な酒どころでありましたが、幕府が江戸に移って以降

伊丹よりも江戸までの運搬が2~3日短縮可能な灘地区が

江戸時代中期以降、上方酒の主流となり栄えました

さらに灘の酒が名声を欲しいままにした決定的な理由が「西宮の水」の存在です

やがて略され「宮水」と呼ばれるようになったこの水は

酒造りに適した成分(カルシウム、カリウム、リン)などが多く含まれた硬水で

これらの成分が麹や酵母の栄養分となり酵素の作用を促進します

また酒造りの水には少量の塩分の含有が好まれていますが、この宮水にはその塩分も多いのです

逆に酒の色や味の仕上がりを悪くする鉄分は

一般的な水の鉄分含有量0.02ppm程度にたいし、宮水は0.001ppmと少ないのです

灘の酒蔵は競ってこの地の水を使うようになりました

しかし井戸を掘っても同じ水脈に当たらない酒蔵もあったようです

そのため、造り酒屋でなくても井戸を掘れば同じ味の水が出る地域の農民らが井戸を掘り

そういう酒蔵に宮水を売る「水屋」といった西宮特有の商売もうまれました

この一大旋風を巻き起こした「宮水」を最初に発見したのが

なにを隠そうこの蔵の六代目、『山邑太左衛門』であったと言われています

特筆すべきは、明治39年には醸造試験所の技師の高橋偵造によって

櫻正宗酒母から分離された櫻正宗酵母が

日本醸造協会より“協会一号酵母”として全国の酒蔵に頒布されたことでしょう


『江戸期に流行った名前の由来』

先代が山城国深草の「元政庵」を訪ねた時

机の上に置かれてた経典に「臨済正宗」の文字を見つけ

正宗(セイシュウ)が清酒(セイシュ)に語音が通じる事から「正宗」を酒銘としたようです

当初はセイシュウという読みが正しい読みでありましたが

マサムネという読み名で親しまれていたため、マサムネという酒銘が定着しました

櫻正宗以外にも菊正宗や山形正宗など

今日においても全国的に多く見られる「~正宗」という酒銘は、江戸期の流行だったようですね
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by yataiti1gou | 2010-10-22 16:31 | 日本酒


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